娘や妹に性的行為をする男性は、「異常」?「正常」?

 

管理人であるわたくし祐理は、先日、アルコール依存症、家庭内暴力、子供虐待などの問題に取り組む著名な公認心理士の講演会を拝聴しました。

その講演会の公式テーマは性的虐待ではなかったものの、彼女はさまざまな問題について縦横無尽に論じ、それこそ湧き出るような情熱でこの社会の根底にある問題を語ってくれました。

私は、彼女が家庭内暴力そのものだけでなく、家族という閉ざされた場所の中で誰にも知られずに暴力が起こる構造について、これまで長い年月、現実的かつ大勢に解りやすい分析をされ、多くの著作や理論を発表してきたことに、あらためて、尊敬と感謝の念を抱きました。

彼女の功績がなかったら、おそらく、性暴力を含むこの国の家庭内の暴力は、100年前と変わらず「たいしたことない」と見なされていたことでしょう。

しかし、ただ一点のみ、私の心にひっかかったことがあったのです。

それは、彼女が講演の最後に、

「実の娘に性的行為をする父親を異常と呼ぶことは、私は反対です。彼らは、それをなんとも思っていないから。」

という旨の発言をしたのです。

それは、私にとって衝撃的な言葉でした。

それまで私は、血のつながった娘や妹に性的行為をする男性を、はっきりしたこだわりなく、『異常』と表現していた(いや、現在も「いる」)からです(性別が逆のパターンもわずかだがありますが、ここでは加害者の性別が男性の例を挙げます)。

ある意味、私は、自分の味方をしてくれていた信頼できる人生の大先輩が、実は味方ではなかった、と言われたような喪失感を感じてしまいました。実の娘をレイプする父親を異常と呼ばないのならば、一体何を異常と呼ぶのかと。

父親が実の娘に性的行為をすることを「正常」、「よくあること」と表現する理由は何でしょうか?」「異常」だと非難しない理由は何でしょうか?

そういう行為や加害者が私達の日常に潜んでいることはもちろん間違いありません。しかし、それを「異常」という言葉を使って私達の社会から排除せず、逆に優しく受け入れる、包摂する意味は何でしょうか?

この公認心理士の考えは、一部には、いわゆる「加害者更生」に携わる専門家の視点を含むものであったかもしれないと私は考えました。

実の娘に対する性暴力の加害者であっても、その加害者本人の幼少期の性的被害体験など、その加害をした理由が必ずあるはずだ、いわゆる認知のゆがみや文化的規範が刷り込まれたのは本人の責任ではないので、認知行動療法などを用いて正してあげれば、その加害者も本来の「正常」な人に戻れるという意見は、よく見られるもので、ここ最近、日本の司法では主流になりつつあるような気もします。

その講演会では、彼女がその点を深く掘り下げる時間はなく、私のひっかかりは小さなトゲとなって心に残りました。

その後数日間、私はその小さなトゲとともに、少し息苦しい生活をすることになりました。

「では私の加害者である父も、あの行為をしたことも含め、社会から見たらやはり『正常』なのだろうか?」
「すると、あの行為が嫌だったとしつこく主張する私のほうが、やはり異常なのか?」
「私の性格が異常に懲罰的なのか?普通の被害者はやはりもっと早くに自ら加害を赦すのか?」

「そもそも、異常とはなんだろう?」

ところが、数日後。

偶然、その公認心理士が書いたある文章が目に止まりました。

「家庭内暴力の加害者を異常と呼ぶことは、加害者の罪を免除することにつながる。だから異常とは呼ばない」

という趣旨の文章でした。そうだったのか。私の胸のつかえは、この瞬間にすっかり溶けていきました。この公認心理士は、加害者をあえて「異常」と呼ばないことによって、加害者を免罪しない姿勢、つまりしっかりと罪を償わせるという姿勢を保っていたのだ、と私は思います。

「異常」と呼んでしまうと、加害者を病人にまつりあげてしまうかもしれません。しかし、家庭内暴力加害者は病人ではないし、加害行為は疾患ではありません。だから医療では「治らない」。

性暴力を含む家庭内暴力の加害者を、異常と呼んで人間ではないもののように一刀両断するのではなく、正常な能力はあったはずなのに自らの意思でそのような行為に及んだ、その責任を加害者にしっかり負わせる必要があると、私は思いました。

私は、この考えかたが胸のなかにすとん、と落ちていくのを感じました。

よかった。私の加害者である父も、やはり罪を認め償う責任は、あったのだ。私はそう感じ、ちょっと大げさに言うと、自分が許されたような気持ちになりました。

と同時に、「異常」「正常」という言葉には、それを使う人によってそれぞれの奥深い意味が込められており、一歩間違うと思い込みや相互理解の不十分から、まったく違う意味を相手から受け取ってしまう危うさがある、ということに、私はこの数日間で気づくことができました。

それはもちろん、この言葉だけに限らないでしょう。

私たちのすべての他人とのやりとりは、文字、音声、双方向かどうかによらず、言葉を用いて行われます。

そこで用いられる一つひとつの言葉の意味が、一人ひとり、わずかに違うことは、きっと多いのでしょう。

性暴力被害者の中でも、性暴力をなくすためにやりたいアクションは人によって異なります。ときに、ある活動が他の活動を批判したり、離れていき別の流れが新たにできたり、またあるときに一緒になったり、とダイナミックに変わっていきます。

それには、お互いに意見をていねいに聞き合い、どこが違うのか、どこが重なるのかについて、相手の言葉の持つ意味を、ゆっくり理解し合うことが大事です(そしてとても難しいです)。

性的虐待の被害者の中でも、いろいろなことに対する感覚や気持ちはそれぞれです。

加害者ではない親に対する気持ち。
被害を聞いてくれる友人、聞いてくれない友人に対する気持ち。
ずっと怒りが手放せないことに対する気持ち。

陽だまりのガゼボでは、言いっぱなし聞きっぱなしの会を行っています。

他の参加者の語りの中で使われている言葉に耳をかたむけ、その発言者がその言葉によって何を伝えたいのか、考えてみましょう。

その言葉を聞いた瞬間に、あなたの中に自動的に湧き上がる気持ちと、発言者が伝えたいことが、まったく同じか、またはどう違うのか、その違いの理由は何か、考えてみましょう。

自分の語りの中でも、自分が使った言葉の意味が、聞いている他の仲間に間違いなく届いているか、考えながら語ってみましょう。もし何通りにも受け取られるかもしれない言葉を使ったときは、さらに具体的に、自分が意図する意味を、説明してみましょう。

言葉を使って自分を説明する。

それは、これが、私達とまわりの世界をつなぐことができる有効な手段だから、というだけでなく、あなた自身に対しても、「あなたの経験は実際に起こったことで、感じた気持ちは当然のもの。あなたは悪くない」ということを、理解させてあげることができる手段だから、です。

セルフヘルプミーティングでは、うまくできなくても大丈夫です。自分が体験したことや感じた気持ちを、聞いている人によりよく伝わるように、表現する練習を、重ねていきましょう。

 

陽だまりのガゼボ管理人 祐理(ゆうり)