私たちの体験を言葉にしよう

あなたが大丈夫だと思ったとき、あなたが受けた体験を、思い切って言葉にしてみましょう。

 

それは、もしかしたらとてつもない高い壁を超える作業かもしれません。

なぜなら、私たちは、いままで何年も、何十年も、誰にも「言葉にして」言ってみたことがないからです。

 

確かに、あのとき、父に、祖父に、叔父に、されたこと。私の空想だったのかな?思い込みだったのかな?そんなにひどいことじゃなかったかな?ケガをさせられたわけじゃないし。お父さんはちゃんとした人だし。私は大げさなのかな?

 

実は、そんなふうにぼんやりしたまま、記憶に蓋をして、一生を過ごしてもいいのです。

それで得られるものと、得られないものを考えて、その結果あなたが納得して選びとった道ならば、それでいいのです。

 

でも、あなたがもし、「やっぱり自分に何が起こったのか、はっきりさせたい」と思ったら、

まず安全な場を探して、そこで語ってみましょう。

 

初めに、自分の気持ちをよくよく観察してみてください。

もし、その準備ができたと思ったら、まずは少しだけ語ってみましょう。

 

自分に実際に何が起きたのか、少し俯瞰して眺めてみましょう。そして、物語を、誰か他の人が語るようにして語ってみるのもいいかもしれません。その時のポイントは、「聞いた人が理解できるように」話を組み立てることです。客観的な視線で語ることで、自分の気持ちが自然なものだったと、肯定できると思います。改めて、あなたには責任はなかったと、ご自身で発見できると思います。

 

 

あのことがあったあと、他の家族からあなたに向けられた表情、言葉、手紙。

友達だと思っていた人や頼れるはずの人から向けられた言葉。

そんなひどいことをした加害者を、逆にかばう人たち。

被害者であるはずの自分が、責められる空気。

同じ構造がいたるところで何重にも繰り返される日本の社会。

 

そういう同じ視点を共有できる人は、同じ経験をしていない限り、とても少ないと思います。

また、性的虐待について、知識として理解している人も少ないです。

 

そうやって安全な場で語っていくうちに、気持ちが次から次に湧いてくることに驚きます。

 

話すうちに、途中で感情があっちやこっちに飛ぶことも、あるでしょう。記憶や話が前後したり、絶望がよみがえり心がゆさぶられて泣き出したり、怒りにまかせて怒鳴ることもあるでしょう。それでもいいと思います。そういう語りを、この会の参加者は、しっかり聞きあいます。

 

もし、あなたが誰かの強い感情を聞いていて、とてもつらいときは、あなたは、そのときの会を途中でそっと退出することもできます。その判断は、あなた自身が行います。

 

こんなふうに、あなたの体験を言葉にする作業は、ときにつらく、エネルギーを必要とし、やらなきゃよかったと感じるかもしれません。

他の参加者があなたと異なる考え方を持っていて、話を聞いているだけで、まるで自分自身が否定されたかのような気持ちになってしまう危険さえあります。

 

それでも、あなたが体験したことを言葉にするという作業は、意味があると思うのです。

 

その作業は、ほんとうは、あなたをとりまいていたもやもやしたダークグレーの雲の群れみたいなものを捕まえて、一つひとつにくっきりとしたラベルをしっかり貼り付けて、形のある箱にそれぞれを詰めて蓋をして、鍵をかけてしまう。これなのです。

 

「陽だまりのガゼボ」以外にも、いくつか同じような自助会もあります。

あなたが可能なところに、参加できるといいなと思っています。

 

陽だまりガゼボ管理人 祐理(ゆうり)